「雨の日には雨の音を…」
梅雨に入り、雨が降る日が多くなりました。しかも土砂降り!
昔は梅雨と言えばしとしとと雨が降るイメージでしたが、最近はバケツをひっくり返したかのような豪雨も当たり前になってきましたね。
先日ニュースを見ていると、司会の方が
「今週は天気が悪い日が続きます。じめじめして気分も憂鬱になりますね」
と言われていました。
確かに「雨=悪い天気」ということは、世間の人々の大半が持っているイメージだと思います。
私も同じで、朝から雨が降ると、どこにも出かけることが出来ず、
「雨のせいでどこにも行けないね」
と降りやまない雨を見ながら子ども達に言うと、
長男:「雨が降ったおかげで木は喜んどるよ」
長女:「雨の音を聞くと落ち着くよ」
と子ども二人から諭されたことがあります。
雨は、洪水や土砂崩れなどを引き起こす「災害の原因」でもある一方で、
「恵みの雨」にもなりますし、雨が降らないと水不足にもなります。
雨降りだからといって一概に「悪い」とも言えませんし、反対に「良い」とも言えません。
私たちの身近に起こる出来事は、見方一つ、捉え方一つで多様な姿を見せてくれます。
こけて怪我をしても「これくらいの怪我で良かった」と思う人と
「あの人のせいで怪我をしてしまった」と捉える人もいます。
何事も良い方に捉えた方が、気持ちが楽になり物事はスムーズに進んでいく。
そんなことがあるような気がします。
何でもかんでも人のせい
失敗したときや思い通りにならなかったとき、私たちは失敗の原因を他人や社会など、
「自分以外のもののせい」にすることがあります。
自分の身に降りかかった不幸、自分に責任がないように思える失敗。
こうした出来事に対して「ああ、これもまた、自分にとって意味があるかもしれない」と捉えることが大切です。
大きな失敗をしてしまったときに「これはきっと自分にとって意味があるのだ」と考える。
理不尽で、腹立たしいことが起きたときにもできればそう考える。そうすると少し心が落ち着いてきます。
ピンチはチャンスという言葉がありますが、嫌なことや失敗を受け入れられるかどうかは、自分の人生において大きなチャンスにもなりえます。
コロナのせいで、コロナのおかげで
新型コロナウイルスの影響が全世界に出ている今日この頃ですが、どうも2通りの人がいる気がします。
先日ご飯を食べに行った時のこと、お店の方が
「コロナのせいで売り上げは減ったけど、コロナのおかげで貴重な夏休みをもらえた気がします」
と言われ、辛抱しながら前向きに捉えることしかできないと語ってくれました。
コロナのせいで、どこにも行けなかった。
政府のせいで収入が無くなった。
コロナのせいで太ってしまった。
コロナのおかげでこんなことができた。
テレワークすることで、家族と向き合うことが出来た。
家にいる間に、断捨離することが出来た
恐ろしい新型コロナウイルスであっても捉え方一つで変わります。
自粛期間中、家にこもり、イライラしている人が増えているというニュースを見ました。
目に見えないコロナウイルスが人から人へ伝染するのも怖いですが、私たちのイライラも周りに伝染します。
ひとりのイライラのせいで、それまで良かった雰囲気が悪くなることもあります。
そんな時こそ思い出して欲しい言葉が『和顔愛語(わげんあいご)』です。
『和顔愛語(わげんあいご)』とは
この言葉は、親鸞聖人が最も大切にされたお経の1つ『仏説無量寿経』の中にある言葉です。
「和顔愛語(わげんあいご)にして、意(こころ)を先(さき)にして承問(じょうもん)す」
相手の身になって和やかで穏やかな笑顔と優しくあたたかい言葉を発し、相手の気持ちを先んじて知り、
よく相手の気持ちを受け入れると言う意味です。
私たちが人とコミュニケーションをとる時、和やかな笑顔と思いやりのあるあたたかい言葉をかけて、
相手の心を察して行動することができれば、深いつながりを築くことができます。
私たちは、簡単にできる穏やかな笑顔とやさしい言葉づかいを忘れているのではないでしょうか。
面倒だと思うことさえあるかもしれません。
現在、世界各地でコロナウイルスが拡大しています。
このような状況だからこそ一刻も早くコロナに振り回されない世界を実現することが強く願われます。
この実現に向けては、私たち一人ひとりができることを考えて行動すること、そして、その輪を広げていくことが最も大切なことだと思います。
私たちにできることは、三密を避けるということはもちろん、コミュニケーションを取りづらい今だからこそ、
「和顔愛語 先意承問」の実践が必要なのかもしれません。
大切な挨拶(あいさつ)
和顔愛語の中で、一番大切で、一番身近なもの、それは『挨拶』です。
実はこの『挨拶』という言葉、仏教から出た言葉です。
他人とは気持ちよく挨拶ができても、身内や家族だとなかなかできない人が多いと聞きます。
だからこそ、朝の『おはよう』という挨拶は、コミュニケーションを充実させ、
人と人のこころを通わせる、とても大切な『挨拶』であり『言葉』なのです。
「挨く拶る」
さて、何と読むかわかりますか?
私が最初に見たときは全く読めませんでした
正解は
「挨(ひら)く・拶(せま)る」です。
挨拶という字には「心を開いて、相手に迫る」という意味があるそうです。
さて、「挨拶」は、禅宗の「一挨一拶」に由来します。
意見を投げかけ、相手の心を見抜くことを意味します。
禅宗で師匠が弟子に問答を迫り、弟子の修行の進み具合を見ようというのが「挨拶」の語源だそうです。
人間が幸せを感じる瞬間とは
人から愛された
人から褒められた
人の役に立った
人から必要とされた
時だと聞いたことがあります。
私たちは周りの人との繋がりの中で生きています。
周りはお構いなしで、自分だけが得をする生き方をしても、真の幸福感は得られないと仏教では説かれています。
幸せな生き方とは、自分が得することばかりを考えずに、自分以外の誰かを幸せにするために生きることも必要なのです。
そのことを仏教では「自利利他(じりりた)」と言います。
自分の利益ばかりでも他人のためばかりでもダメです。
どちらか一方にかたよることなく、自分のため、人のためにバランス良く生きる。
和願愛語とは、そういう生き方を実践するためのひとつの教えです。
周りの大切な人に怒った顔で、冷たい言葉を投げかけ、自分さえ良ければいいという私ではないでしょうか。
まさに私がそうです。
最後に笑顔と言えば、思い出す、ウルフルズの「笑えれば」という歌の一部を紹介します。
誰もが みないつも
満たされない思いを
胸の奥に抱いたまま
歩き続けてゆく
とにかく笑えれば
最後に笑えれば
答えのない毎日に
ハハハと笑えれば
「ウルフルズ」
きっと、これからも思い通りにならないことや理不尽なこともあり、
「こんなはずじゃなかった」と思うこともあると思いますが、
「和顔愛語」を実践しながら周りの人との絆を深め幸せな人生を送りたいものです。