品龍寺ブログ

「寺町」

 

 

広島で人々の信仰の中心として400年以上もの長い間、歴史と伝統を守り続けてきた寺町。

 

今でもありがたいことに、寺町と言うと「格式」や「由緒」を感じてもらえることもしばしばあります。

 

ある葬儀社さんには、

 

「さすが寺町のお寺さん、みんな声が良くてお経が上手!」

 

とお褒めいただき苦笑いしたこともありました。

(確かに、周りのお寺のお坊さん、みんなお経がお上手です)

 

新たなご縁でお寺に来られる方も、「寺町」というとものすごくいいイメージを持ってくださっています。

 

この寺町、みなさんがまず驚かれるのが、お寺の多さです。

 

お寺がありすぎて、どこのお寺か分からないということもあるそうです。

 

この小さな町の中には17軒のお寺が並びます。

 

この小さな範囲に一つの宗派のお寺が密集しているのは珍しく全国でも広島だけと聞きました。

 

 

 

安芸国広島城所絵図

 

 

 

 

城下町広島

 

 

この寺町の成り立ちには、広島城の築城と深く関係しています。

 

広島は毛利輝元、福島正則、浅野長晟という3 人の領主によって作られた町です。

 

広島城は、城主を変えながら、広島藩の拠点となった城で、本丸を囲む内堀は現在も残っていますが、

 

当時は、北堀、中堀、外堀とあり、北は白島、南は現在の相生通り、

 

東西には八丁堀から旧市民球場跡地前までが城内という、

 

西日本最大の惣構えの城下町として発展しました。

 

広島の城下町は、城郭、武家屋敷、寺町、町人町、新開からなります。

 

武家屋敷は城郭の周囲や要所に広大な面積を占め、その周りに町人町が出来ました。

 

海側には,干拓により造成された土地(新開地)が造られたそうです。

 

お寺が密集している寺町がつくられたのが城の西側で、広島城西側の外堀として、

 

川の流れをそのまま外堀として使われた旧太田川を挟んだ対岸にあります。

 

 

寺町の南には当時最も栄えていた西国街道や繁華街があり、

 

寺町の中心には安芸の国北部への重要な交通路「雲石街道」が南北に通っていました。

 

寺町の横には、川船と海船の荷揚げなど水運の拠点とされた旧太田川が流れ、対岸には広島城。

 

当時としてはまさに要所で、城下町の中でも一等地だったのかもしれません。

 

 

正徳年間広島城下絵図

 

 

 

 

本願寺広島別院

 

 

寺町の中心寺院

 

 

この寺町の中心となるお寺と言えば、間違いなく本願寺広島別院でしょう。

 

この本願寺広島別院、もともとは1459年に安芸武田氏により現在の武田山の麓に建てられた「仏護寺」というお寺でした。

 

当時は天台宗でしたが二代目の住職の時、に浄土真宗に改宗されました。

 

安芸武田氏は戦乱の世の波に揉まれ、1541年に安芸武田氏は滅亡しましたが、その後、武田氏に代わって毛利元就の庇護を受けました。

 

豊臣秀吉が天下人となると、毛利輝元は広島城の築城に着手しました。

 

その時の町割で仏護寺は広島小河内に移転しました。

 

その後領主となった福島正則の時代に(1609年)に、他の寺院とともに寺町へと移転しました。

 

福島正則の去ったのち広島は浅野氏の支配となり、そのまま浅野氏の庇護を受けて明治維新を迎えます。

 

明治9年(1876年)には、仮の広島県庁舎がここ広島別院に置かれています。

 

 

 

寛永年間広島城下絵図

 

 

城下町での寺町の役割

 

 

 

寺町がこの地に出来たのは、江戸時代初期に福島正則が、城下町整備の一環として寺町を造営したことがきっかけです。

 

かつてお寺には要塞として城下町を防御する機能が求められていました。

 

広島城下を敵から守るため、わざわざ移転させてまで城の西側に広島の主だった大きな寺院を集めたのです。

 

寺町という地名は全国に存在しますが、そのほとんどが城下町として栄えた街に存在します。

 

敵攻めの際の防衛の拠点とするため、多くの寺院を1カ所に集めたということです。

 

広島城西に南北に広がる寺町一帯は広島城を守るべくして形成されたと言うのが定説となっています。

 

もちろん、それだけではなく、寺院本来の目的、お寺参りの対象として安芸の人々の信仰を集め、

 

「真宗王国」と呼ばれる広島で信仰の礎を作ってきました。

 

また他藩との争いの無い平和な江戸時代、城下の中でも人が集まりやすい立地とお寺の持つ広い境内地を活用し、

 

各種芸能の興行やお祭りなど催し物のための場所である「広場」や「公園」としての意味もあったのではないかと思います。

 

定かではありませんが、「相撲」や「人形浄瑠璃」などの興行、夜店などで賑わっている昔の寺町を勝手に想像しています。

 

また、広島城の安全を願い、城下町の人々を仏の力で守るという意味もあったそうです。

 

 

 毛利輝元の庇護を受け、福島正則が仏護寺(本願寺広島別院)を始め広島の主だった浄土真宗寺院を寺町に移転させ、寺町としたと言われています。

 

現在も400年以上前から変わらぬ場所にある寺町。

 

原爆により灰燼に帰しながらも、旧太田川(本川)の流れに寄り添うように伽藍が連なる景観は、

 

400年以上前、城下町の時代からから受け継がれた情緒を感じることができます。

 

 

 

 

 

長い間、広島の信仰の中心として存在し続けている寺町のお寺、

 

今後も100年、200年と永遠に存在し続けるという永続性を維持しつつ、

 

長年培われてきた寺町の「安心」や「信頼」という広島県民の良いイメージを裏切らないよう精進していかなければなりません。

 

また一方で寺町のお寺は敷居が高そうと言われることもあります。

 

いかに敷居を下げ、入りやすいお寺に出来るかも大切なことです。

 

これからも、みなさまと同じ立場、同じ目線で安心していただけることが寺町のお寺である大切な存在意義だと思います。