先週の金曜日、楽しみにしていたドラマ「病室で念仏を唱えないでください」が放送されました。
僧侶という専門的な視点から見てみると、少し違和感があります。
滝に打たれたり、般若心経を唱えたり、法衣や数珠は真言宗、仏事指導の方は日蓮宗、しかしタイトルには念仏とあります。
ドラマの中でも浄土真宗の教えの「悪人正機」のくだりが出てきました。
きっと宗派にはこだわらず、いろんな宗派のいいとこどりなんだろうなと思いました。
ドラマなんだし、そこまで気にしない気にしない。それよりもまず仏教の教えをしってもらういいきっかけになるのではと思います。
確かに特定の宗派の設定にしてしまうと、その宗派の本山やお坊さんからクレームが入りそうですし。
いろんなバランスを取りながら大人の事情で主人公を設定されているのでしょう。
ドラマですので、目くじらを立てずに、気にせずに楽しんで見ることができましたが、
医療用語のほかに「煩悩」や「ありがとうは有り難いからきている」等の仏教用語もたくさんでてきました。
伊藤英明さん演じる主人公は人間臭く、おっちょこちょいな一面もある人柄でとても親近感が湧きました。
次回からも楽しみです。見ていないかたは是非ごらんくださいね。
現在、日本の仏教の宗派は13宗派、その中でも分派され、細かく分けると56派にもなります。
うちのお寺は浄土真宗本願寺派(西本願寺)のお寺ですが、墓じまいや永代供養墓のことで相談に来られるかたの中には、
違う宗派の方もたくさんおられます。
「他宗派ですが、品龍寺に葬儀をお願いしたい」
「○○宗でしたが品龍寺の門徒になりたい」
と言ってくださるかたもおられます。
品龍寺では過去の宗旨は問わないですが、お経や作法は浄土真宗の儀礼に則ってさせていただいています。
他の宗派のかたでも、それで良いという方が多いのは、それだけ宗派へのこだわりが無い方が増えているということでしょう。
むしろ「宗派」「宗派」とこだわっているのは、お寺や我々、僧侶かもしれません。
そもそも、お釈迦さまの時代は宗派などなく、宗派は後付けのものでした。
お釈迦さまの教えということで宗派にはこだわらないという方がおられるのも納得できます。
どの宗派も仏教ですので、「仏になる」という目的は同じですが、そのための方法が違います。
実際に数多くあるお釈迦さまの教えの中で、どれが自分に合い、どれが一番しっくりくるのかは、
ひとつひとつ教えを聞いてみないと分からないこともあります。
私はというと、たまたま一番自分にしっくりくるのが浄土真宗の教えでした。
いや、むしろこの私が救われるのは『悪人正機』という教えしかありません
この「悪人正機」の教え「病室で念仏を唱えないでください」の中でも、たびたび紹介されていました。
日本で最も読まれている仏教書は何だと思いますか?
それは「親鸞聖人」のお弟子「唯円」という方が書いた『歎異抄』(たんにしょう)です。
親鸞聖人が亡くなられた後、親鸞聖人の教えとは異なる教えと説くものがたくさん現れました。
弟子の唯円はその「異なることを嘆き」、生前に身近で聞いていた親鸞聖人のお言葉を書かれ、
世にはびこる間違った教えを正そうと著された書物になります。
その『歎異抄』で一番有名な言葉が、教科書にも載っている
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
という言葉です。
聞いたことがある人も多いと思います。
「善人でさえも救われるのだから、悪人はなおさら救われる」
という意味の教えで、浄土真宗でとても大切な教えです。
誤解される悪人正機
最初にこの言葉を聞いた時、「救われる順番が逆じゃない?」と思いました。
また「悪いことした方が救われる」と誤解されることもしばしばあったようです。
親鸞聖人の教えを間違って解釈してしまう人が多かったため、『歎異抄』は、
江戸時代までの数百年間、門外不出の秘本とされたこともありました。
悪人の本当の意味はというと、
「煩悩(欲望)に遮られて、迷いの中で苦しんでいる人」
という意味で、決して犯罪を犯す「悪人」のことではありません。
一方、ここでいう善人とは
「自分の力で善い行いをしたり、自ら修行によって悟りを開こうとする人」
という意味です。
熱を出して苦しんでいるわが子に愛情を注ぐ親の姿に例えられることがあります。
親は子供が何人いてもみんな大事でみんな平等に愛情を注ぐものですが、病気で苦しんでいる子がいたら、
その子にどうしても目をかけ、愛情を注ぎます。親が愛情を注いでくれるから困らせてやろうとする子がいないように、
「悪人こそが救いの目当て」と聞いて「罪を犯すこと」「悪いことをした方が救われる」 と考えるのは間違いです。
私は虫の中にも好きな虫と嫌いな虫がいます。
チョウチョやカブトムシは好きですが、カメムシやゴキブリは嫌いです。
世間でもこの虫は、害虫、この虫は益虫と呼んでいます。
しかし虫たちは「人間を困らせてやろう」とか「人間のために働こう」とか、
そんなことひとつも考えていないと思います。
益虫か害虫かは人間にとっての都合によって決まります。
人間の自己中心的な考えによって害虫か益虫かを決めていますので人間は自己虫中ですね。
善悪も同じです。自分にとって都合がいいなら善、都合が悪いなら悪になることもあります。
私達の価値判断は行為を行った人では無くて、第三者から決められるもので、自分の置かれた状況によってはコロコロ変わる曖昧なものとも言えます。
金八先生のクラスに一人不良の生徒がいました。
その不良と言われる生徒をみんなで攻めていたときに金八先生がクラスのみんなに言った言葉があります。
みんなで考えましょう。
悪はどこにありますか?
悪はどこにありますか?
警察にありますか?
学校にありますか?
路地裏のゲームセンターにありますか?
違う!!
悪はそんな所にない。
悪はどこにあるか?
みなさんの心の中にあるんです。
他人の悪をもし批判すると言うならば自分の悪をしっかり見つめ認識しなさい。
それが悪を批判するということです。
また私達が普段善悪をつけるのは、自分の都合のほかに、道徳的にどうか、社会的にどうかで決めています。
一方、仏教では
「自他ともに安穏な状況をもたらす行為が善」
「苦しみや悩みを生じさせる行いを悪」
といいます。私たちはどうでしょうか?
悪人とはだれのことか?
私たちは、善人とか悪人と聞くと、自分を普通の人として、自分よりいい人を善人、自分より悪い人を悪人だと思います。
自分は棚に上げて自分中心に人を裁くのが私です。
ところが、阿弥陀仏の側からご覧になると、すべての人が「悩み苦しむ」悪人なのです。
阿弥陀さまの救いの目当てが悪人なのは、この世に悪人以外はないからです。
仏教では「人生は苦なり」と言われるように、私たちには大なり小なり悩みや苦しみがあります。
それは煩悩(欲望)があるからです。その煩悩に振り回され、あれも欲しいこれも欲しいと苦しんでいる私です。
自分中心にしかものごとを判断できず、さまざまなものにとらわれている私です。
まさに私こそが悪人だったのです。そんな私を見捨てずに救ってくださるのが阿弥陀さまなのでした。
私たちは毎日いろいろな生き物のいのちを奪いながら生きています。
「この肉は固い」「美味しくない」と文句ばかりいって食べている自分を悪とも思っていない私です。
また、めぐり合わせによってはどんな恐ろしいことでもしてしまいます。
このような私の姿に気付かせ、そのまま救ってくださるのが阿弥陀さまの慈悲であり、
そのこころを表すのが「悪人正機」という言葉です。
親鸞聖人は、このような阿弥陀さまのお慈悲に出遇い、そのお慈悲が注がれているのは、
他でもない煩悩に満ちあふれた自分自身であると受けとめられました
つまり、仏の側から私たちを見た時に、
「悪を重ねる私を嘆きながらも、決して見捨てることはない」というのが悪人正機の心です。
悪人正機についていまいち分からない、もっと知りたいと思われたかたはご連絡くださいね。
もう少し詳しく説明させていただきます。