今日は立春です。暖冬とはいえ肌寒い日が続いていますが、暦の上ではもう春なんですね。
今日は立春らしい、朗らかないいお天気で、少しずつ梅の開花が進んでいるでしょうか。
昨日、立春の前日は節分でした。日本全国で「鬼は外 福は内」と豆まきが行われる日です。
お寺や神社、あるいは家庭で、豆を撒きながら悪い鬼を追い払うという光景を目にします。
ニュースでも必ず流れますよね。
では、なぜ節分に豆を撒いて、鬼を追い払うのでしょうか?
節分とは、季節を分けると書きます。本来は立春・立夏・立秋・立冬すべてが節分のはずです。
しかし今は立春の前日だけが節分と言われています。
実は旧暦が使われていた昔の日本では、春が一年の始まりだと考えられていました。
節分の次の日である立春が新年となっていたそうです。新しい年を迎えるにあたって、禍(わざわい)を追い払う行事が、
新しい年の前の日、いわゆる大晦日であった節分に行われ、現在の悪い鬼を追い払う、節分の豆撒きとなったみたいです。
日本で一般的に行われている「豆まき」の風習は、中国由来の習俗の影響が多く、本来は仏教と関わりのないものであったそうです。
よくテレビでも芸能人や有名人が豆を撒いている姿を見かけます、一見ほのぼのとした光景なのですが、
冷静にかつ少しひねくれた見方をすると、人間の本性が出ているような気がします。
(あくまでも私のひねくれた見方です↓)
大の大人たちが、豆を撒きながら大きな声で
鬼は外!(自分に都合の悪いものは外に出ろ)
福は内!(自分に都合の良いものだけは来い)
と叫んでいる。
自分のことしか考えていない自己中心的な心、
悪いものは自分ではなく自分の外にあるという
人間の本性があらわれている気がします。
鬼というのは恐ろしい生き物であり、怒りや悩み苦しみの中で生きている地獄の世界の生き物だと考えられています。
絵では地獄の様子を見たことがありますが、実際に鬼を見た人はいません。昔から言い伝えられている鬼の伝説も、
「航海中に漂流してしまい、日焼けをして顔が赤くなった白人なのでは?」という説もあるほどです。
実は鬼という存在は漠然としていて、何か自分にとって都合の悪い恐ろしい存在とイメージされているのだと思います。
一方、私達人間は、ひとたび縁に触れると何をしでかすかが分からない危険な一面があります。
普段は優しく穏やかでも、何かあれば、自分勝手に行動し、時には人を傷つけてしまう生き物です。
そうです。鬼とは私達の内側に存在しているのです!
仏教的な解釈では、人間の心の中にある、「怒り」「むさぼり」「愚痴」という煩悩こそが鬼の正体とも言えます。
私たち人間は、だれもが煩悩という鬼の一面を持っています。
例えば、ご飯を食べるとき、「食べるものがない」「全然美味しくない」と愚痴を言うことで、
楽しいはずの食卓が、荒れる喧嘩の場となってしまいます。
ご飯を作ってくれた人を思いやる心や、生命に感謝する心を起こせば、楽しい食卓になるはずなのに・・・です。
本来浄土真宗のお寺では豆撒きをすることはありません。
しかし、せっかくの行事なので我が家では行っています。
ただし我が家の鬼役は家族全員交代でする!というのが決まりです。
「イライラ鬼」
「ウジウジ鬼」
「ダラダラ鬼」
「コラコラ鬼」
いろんな自分の中の鬼を追い出す意味で交代しながらやっています。
もちろん、これらの鬼はなかなか外に追い払うことのできない、邪悪な鬼です。
なんとも情けない限りですが、自分のことを見つめなおす、いいきっかけとなっています。
本来、仏教と節分の行事は関係ないものなのかもしれません。
しかし、「鬼」と呼ばれる存在は、実は自分の外にあるのではなくて、自分の内側、自分の心に潜む「煩悩」なのではないでしょうか。
節分を自分自身の抱える「煩悩」と向き合うための一つのきっかけとすることで「節分」に、仏教的な意義を見出すことはできるのではと思います。
鬼は自分の外にいるのではなく自分の心の中にいるのです。
それを正しく自覚する事ができれば・・・と思いながら豆を当たられていた副住職でした。