お彼岸中、永代供養や墓じまいについての相談以外にもこんな相談がありました
「広島の浄土真宗のお寺にペット供養をお願いしても全て断られてしまいました」
「お寺の住職なら私のこの気持ちを分かってくれると思いましたが・・・」
というご相談で、非常に困られていました。
以前相談したお寺には
「浄土真宗ではペット供養はしていません」
「ペットは畜生なので極楽往生はできません」
と言われ、とても傷つかれたそうです。
ここ数年、広島でも、家族の一員でもあるペットが亡くなった後、
葬儀や納骨できるペット霊園のコマーシャルや看板が増えてきました。
その一方で「ペット葬儀」等の仏事や「ペット墓」を持つ浄土真宗のお寺は少ないと思います。
何も広島の浄土真宗のお寺だけじゃなく、
全国的に、どの宗派のお寺でも多くはないはずです。
相談に来られた方は「うちは代々浄土真宗なので浄土真宗のお寺でお経をあげてもらいたい」とのご希望でした。
多くはありませんが、広島の浄土真宗のお寺でもペットの法要をやってくれるところもありますし、
ペット専用のお墓を持たれているお寺もあると思います。
たまたま、ペットについて考え方の合わないお寺さんにあたったのだと思います。
この方の話を聞いて真っ先に思い出したのは、子どものころに飼っていた愛犬コロのことでした。
雑種でよく吠え、しつけもあまり出来てなかった犬でしたが、物心ついた時から当たり前のように一緒に生きて、一緒に成長しました。
まだ幼かった私の友達であり、弟分でした。学校で嫌なことがあってもコロに聞いてもらったり、
一緒に散歩に行くことで気分が紛れることもありました。うれしいときも悲しい時もいつもコロがいました。
そのコロが息を引き取ったとき、私はお葬式をしたいと父である住職に言い、小さい棺にいれて、私がたどたどしいお経を読みました。
お別れの時は、棺にリードや写真、絵や手紙を入れました。
その時はお経の意味も読み方も分かっていませんでしたが、ちゃんとお別れをしたい、
丁寧に弔いたいという気持ちだけはありました。
コロには大切なことをたくさん教えてもらいましたが、最後に「命あるものは必ず死ぬ」
という紛れもない現実を教えてもらいました。
その後もコロを思い出しては、「もっと優しくしてあげたら良かった」という後悔や
「テレビや友達と遊ぶことを優先していたこと」への恥ずかしさ、
「いのちの大切さ」というものに初めて気づかせてもらいました。
コロだけではなく、その後、我が家に来てくれたウサギやハムスター、
阪神大震災の被災犬であるラッキーとハナ達にもいろんなことを教えてもらい、
その度にしっかり見送ってきました。
今の私があるのは、我が家に来てくれた、たくさんの動物たちのおかげです。
今では、家族の一員となったワンちゃんや猫ちゃんなどのペットですが、
それでも家族と同じお墓に入ることは少ないと思います。
人は人、ペットはペット専用のお墓です。
確かに、以前子どもが飼っていたカブトムシや小鳥が亡くなったときは木の下に穴を掘って埋葬しました。
飼っていた愛犬やペットが亡くなったときも、家族のお墓に納骨することは選択肢にありませんでした。
少し前までは、一般的にもこの考え方が多かったように思います。
この考え方の背景には、動物が「畜生」だから、
生まれ変わっても極楽浄土に行けないと解釈してきた歴史があるからではないでしょうか。
だからこそ、多くの仏教各宗派ではペットを人間のお墓に納骨する事を断っていきました。
「ペットの往生(極楽に往き仏として生まれる)」について浄土宗では以前、
大論争が起きていましたが、仏教各宗派、お坊さんによっても考え方は違うと思います。
同じ仏教とは言え、たくさんの教えがあり、「動物=畜生」だから、往生はしないという考え方がある一方で、
動物も往生できるという考え方があります。
仏教には六道輪廻(ろうどうりんね)という考え方があります。
天(てん)
人間(にんげん)
修羅(しゅら)
畜生(ちくしょう)
餓鬼(がき)
地獄(じごく)
私たちは六つの世界を輪廻(生まれ変わる)しており、
犬や猫などの動物は畜生道に生まれ、六道を何度も生まれ変わりながら、
やがて人間として生まれ、仏の教えに出会い救われていくという考え方です。
つまり動物もいつか人間として生まれ変わり、救われていくということです。
これは何も、人間が他の命よりも優れているということでは無くて、
「人間としてこの世に生まれてくることは稀なことだから、無駄に過ごさず、後悔のないように仏道を歩みなさい」
というところに重点を置いている考え方なのだと思います。
浄土真宗だけに限らず、仏教すべての宗派においてこういう考え方があります。
だからと言って、
「畜生だから仏事は出来ない」
と切り捨てるのは大間違いだと思いますし、
悲しみ苦しんでいる方に
「犬や猫などの動物は往生出来ない」
と言い切ることは私には出来ません。
一方、浄土真宗で最も大切な「仏説無量寿経」というお経の中には、
若在三塗勤苦之処、見此光明、皆得休息、無復苦悩、寿終之後、皆蒙解脱
(現代語訳)
もし三塗勤苦(地獄・餓鬼・畜生の世界)で苦しんでいるものでも、
阿弥陀仏の光明を見れば、その苦しみが休まり、命終わったあと、みな解脱(げだつ)する(救われる)
と書かれてあります。
畜生である動物も解脱するという事は
「動物も阿弥陀仏によって救われ、極楽浄土に生まれる」
と解釈できます。
この「阿弥陀仏」という仏さまは、あらゆる有情(うじょう・生きとし生けるもの)を救いの対象としており、
この「あらゆる有情」の中には「蜎飛蠕動の類」も含まれるのだと親鸞聖人は教えてくれています。
「蜎飛(けんぴ)」とは、飛び回る小さな虫、「蠕動(ねんどう)」とは、地にうごめくミミズなどのことです。
これらのことから、人間の命も他の命も同じように大切な命であり、
全ての生きとしいけるものを救いの対象とされている
阿弥陀如来の救いのはたらきの力強さ・素晴らしさを感じることが出来ます。
このお経の言葉や、親鸞聖人の言われたことから、
この世に生を受けた人間やそれ以外の動物、
虫も救われると理解してもいいのではないかと個人的には思います。
つまり、「ペットも往生できる」という解釈も出来ると思います。
これらの考え方に基づくならば、ペットの葬儀や法事などの仏事も人間と同じようにしてもいいのではないかと考えています。
実際、品龍寺でも、ご希望があれば亡くなったペットを偲び、読経することもあります。
お墓を人間のお墓と一緒にすることはなかなか難しいことかもしれません。
その土地の習慣や風習、墓地という公的な場ということもあり、疑問に思う人もいるかもしれません。
人間のお墓とは別の専用の場所であればペットのお墓があっても良いと思います。
ペットが往生できるか、できないかという解釈や理解の違いがありますが、
どちらも尊い教えには変わりありませんし、私にはどちらが正しいかなんて分かりません。
私の命が終わり、往生したときに初めてわかるのかもしれません。
私は研究者でもないし、仏教の教義全てを理解しているわけではありません。
私の考えはいろんな考え方の一つであって、決して正解ではないかもしれません。
私がここに書いたことも、いろいろな考え方の1つなんだということをご理解いただけたらと思います。
ペットの往生に関して、家族よりも大切と言われるこの現代、いろんな意見があり、
これからは、もっともっと議論が深まればいいと思いますし、そうあるべきです。
「ペットが往生し仏さまとなっているかどうか」について、
私には確かめることはできませんし、一方で「ペットの往生はない」と言い切ることも出来ません。
私にできることは、ただ阿弥陀仏にお任せし、お浄土での再会を期待することばかりです。
教義的にはグレーゾーンかもしれませんが、一番大切なことは愛する家族を失った悲しむ方に向き合い、
その悲しい気持ちをくみ取るのが僧侶の役目だと思っています。
ペットを失い悲しむ方の苦しみと向き合い、仏さまの教えを聞くご縁を持ってもらうことが大切です。
ペットと人間、お墓は違っても、いつか極楽浄土で再会できることを伝えていけたらと思っています。
ここ最近、空前のペットブームで、ペットに対する葬儀の意識も大きく変わったように思います。
ペットも大切な家族ということは、犬や猫、動物が大好きな私は身をもって理解しています。
大切なペットを亡くされた悲しみや後悔も痛いほど分かります。
「信頼できる僧侶や、浄土真宗のお寺でお願いしたいのに」
とお困りの方や、
きちんと弔ってあげたい願う飼い主の方がおられましたら、
いつでもご相談ください。
大切な家族の一員を通して、大切な限りある「いのち」のご縁を結ばせていただきたいと思います。
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