早いものでもう3月になりました。
寒暖の差が激しく毎日がジェットコースターのような気候に翻弄されて、
春の陽気が待ち遠しい今日この頃です。
待ち遠しいと言えば、最近はあるドラマを楽しみにしています。
普段はほとんどドラマを見ない私がこの冬、
毎週かかさず見ているドラマがあります。
主演は長瀬智也さん、脚本は宮藤官九郎さんが担当している金曜ドラマ『俺の家の話』(TBS系)です。
全盛期を過ぎた42歳のプロレスラー(長瀬智也)が、能楽の人間国宝の父親(西田敏行)の
介護をするために実家に戻ってくることから始まる新しい形のホームドラマです。
能とプロレスという変わった設定と、
介護と相続という誰もが経験しうる複雑な問題が絡み合いどんな内容になるのか、
とても楽しみにしていました。
親の介護や伝統芸能の継承、家族問題など、シリアスになりがちなテーマではあるものの、
クスッと笑える描写で描かれており、とてもリアルで、毎回元気を貰えます。
主人公が跡を継がなければならないという重責に耐え切れず、
しばらく音信不通になっていたということも共感できます。
この能楽師を父に持つ一家ということで登場人物の名前も変わっています。
特に私が気になったのは、寿限無(じゅげむ)という主人公の遊び仲間でもあり、
父親の芸養子でもある人の名前です。
この「寿限無」ご存知の通り、日本一長い名前であり、早口言葉や落語としても有名なものです。
生まれた子供にめでたい名前を付けようとして、お寺の住職から色々と教えてもらったおめでたい言葉を、
全て並べて子供の名前にしてしまったというものです。
寿限無の本当の意味
寿限無、なんだか呪文のような言葉ですが、どんな意味があるのでしょうか?
「寿限無(じゅげむ)・寿限無、五劫(ごこう)の擦り切れ…」の
「寿限無」は、「寿限り無し」という意味で限りない寿命のことです。
お経にも出てくる無量寿(阿弥陀如来の別名)と同じ意味になります。
仏教用語では「無量寿」(むりょうじゅ)になりますし、
インドの古い言葉では「アミターユス」(量り知れない寿命を持つもの)という意味です。
これを漢字で表すと「阿弥陀」になります。
つまり寿限無とは、阿弥陀如来に通じる言葉なんです。
阿弥陀如来という仏さま
阿弥陀如来という仏さまは「願い」を持たれた仏さまで、
「すべての生きとし生けるものを救いたい」と誓いを立てられたお方です。
諸仏の中の王とも言われ、数多い仏さまのなかで、最も優れた仏さまとされています。
「限りない命」と聞くと、単に死なない命だと想像出来ますが、そうではありません。
「限りない命の仏様」というのは、その仏様にとって決して見捨てることのできない、
慈しみ悲しむべき命が限りなくあるからなのです。
阿弥陀如来が願う生きとし生けるものを救うという慈悲の働きに終わりはありません。
あらゆる命の悲しみや苦しみを限りなく背負い続けていくのです。
抱えきれない苦しみや悩みを持った数限りない命を救うため、どこまでも追いかけ、
地獄の底にまでも沈んでいき、あらゆる命を救うため、
限りなく働き続けることを「無量寿」という言葉で表されています。
ちなみに五劫の擦り切れの「五劫」は「ごこう」と読み、仏教の単位で、
天人が100年(3000年とも)に一度、天から降りてきて、とてつもなく大きな岩をその羽衣でそっとなでる、
そしてその岩が擦り切れてなくなってしまうのが一劫という時間です。
つまりとてつもなく長い時間であるということをあらわします。
浄土真宗の正信偈というお経(偈文)にも五劫思惟之摂受(ごこうしゆいししょうじゅ)
という一文が出てきます。
阿弥陀如来は私たち、生きとし生けるもの全てを救うという大変な方法を、
五劫という気の遠くなるような長い時間、考えに考えられたという意味です。
この「俺の家の話」というドラマを見ながら、「寿限無」という名前が出てくるたびに
阿弥陀さまの働きに思いを馳せ、大切に味わわせていただいております。