お墓の歴史
永代供養墓は、最近需要が高くなっているお墓のひとつです。20年以上前に永代供養墓型の合同墓を造った
品龍寺でもここ数年で以前では考えられないくらいの問い合わせがあります。
少子高齢化が進む現代では、お墓の継承問題が深刻になり、無縁墓も多くなっています。
お寺が子孫に代わって永代に渡りお預かりする永代供養墓は、無縁になる心配がないため選ばれています。
また、永代供養墓以外にも納骨堂や樹木葬などの多くの種類のお墓が増え、自分で選ぶことの出来る時代になってきました。
普段あまり考えないお墓の歴史や変遷を知ると、さらに安心してお墓を選べると思います。
そこで今回は、現在のお墓や永代供養墓の形になるまでの変遷を、それぞれの時代に分けて簡潔にお伝えしたいと思います。
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《目次》
そもそもお墓はいったいいつから建てられるようになったのでしょうか。
日本で古いお墓といえば古墳時代を象徴する「前方後円墳」をイメージされる方も多いと思いますが、
実はお墓の原型は縄文時代からありました。
縄文時代や弥生時代からすでに埋葬が行われていました。
この頃から故人を弔うという文化は存在していたのです。
当時は現在の合祀墓(ごうしばか)のように合同で弔われ、
掘った穴の中に埋葬するというシンプルな形だったそうです。
佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、甕棺や石棺と呼ばれる住民や兵士など一般人の共同墓地や、
北墳丘墓・南墳丘墓と呼ばれる集落の長のお墓とされているものが遺っています。
なお、土器が副葬されていることも多く、
このころから埋葬に故人を弔うという意味が込められていたと考えられます。
弥生時代になると、遺体とともに装飾品を埋めることもありました。
またこのころから稲作が発展して人口が増え、大きな村が作られるようになると、
墓地は集落の外に作られるようになりました。
また、集団の中に貧富や身分の差が現れ、
盛り土をした大きな墳墓が造られるようになったのもこの時代からです。
3世紀頃になると、権力者が亡くなった時に巨大なお墓が建てられるようになりました。
私たちのよく知る古墳のことで、7世紀頃まで大きな古墳がいくつも建てられていたため、
この時代を古墳時代と名付けられています。日本で最も有名な古墳は、仁徳天皇陵です。
巨大な前方後円墳で、クフ王のピラミッド、始皇帝陵と合わせて世界三大墳墓と呼ばれているそうです。
ただし、この時代、古墳は権力者だけのもので、一般の人々の埋葬は、弥生時代からあまり変化ありません。
また古墳時代には「殯(もがり)」と呼ばれる儀式もあり、葬儀を行うまでの間、遺体を仮の建物に安置し、
様々な儀式を行ったといわれています。一説によるとこの儀式が現在のお通夜になったと言われています。
飛鳥時代になると、重要なものが日本に伝わります。
そう「仏教」です(538年)。仏教伝来によって弔い方が徐々に変わっていくことになります。
仏教伝来とともに火葬の風習も伝わったとされています。
645年の大化の改新の際には「薄葬令(はくそうれい)」という勅令が制定され、
その中では墳墓の造営について制限がされました。この頃に古墳時代が終わりを迎えます。
薄葬令とは、お墓の規模を制限したり、お墓を建てる日数を制限した内容の法律で、
大きな副葬品や殉死も禁じられました。
飛鳥時代に仏教が伝わると、飛鳥文化が発展しますが、
当時はまだお墓と仏教は結び付けられていませんでした。
なお、この時代の一般庶民は「風葬」と呼ばれる葬送方法で、
特別なお墓はつくらず、遺体を荒野で土に還すという
こともあったようです。
平安時代になると人口増加にともない、共同墓地がつくられるようになりました。
この頃からお墓とお寺は結びつくようになります。当時、死は「穢れ」とみなす風潮が強く、
遺体に触れると穢れてしまうという考えから、放置されることもあったとそうです。
そのため、街はずれや川、海や山に遺体を放置し、風葬としていたケースもあったようです。
また平安京では、死を穢れとする風潮において、
市街地であっても貧しい人々のご遺体は放置されていました。
このころにつくられた共同墓地が、後に寺院墓地になったという説もあります。
平安時代に入ると、仏教思想が貴族を中心に広まり始めます。
お寺や塔の建立が盛んになり、お墓にも塔を建てる風習が生まれたとされています。
また、仏教の広まりと共に、僧侶が埋葬を担当するようになったようです。
貴族は弔いの為の寺を建立し、庶民でも寺の境内にある墓地を求める人もいました。
墓地に寺が建てられ、また寺の境内に墓地が造られる事で、
仏教と葬送はより強く結びつくようになります。
9世紀、京の中にお墓を造る事が禁止されていた為、
郊外の山野が墓地として発達し、庶民だけでなく、
天皇や貴族の墓所としても広く使われ、共同墓地が発達していきます。
天皇や貴族の間では、仏式で葬儀を行うことが多くなってきました。
また、前述の薄葬令の影響で、火葬し荼毘(だび)に付(ふ)すということも
上流階級の間で行われるようになってきたようです。
京都では、火葬場として「荼毘所(だびしょ)」というものが設けられました。
余談ですが、人口が密集し増加している地域は埋葬地が不足するため、
人口密集地域から火葬は広まっていく傾向があります。
鎌倉時代に入ると一般庶民にも仏教が浸透していき、
埋葬方法も従来の土葬と火葬の両方が存在していました。
ただし、お墓はまだ身分の高い武士階級などの
限られた人々しかつくることが出来ませんでした。
親鸞聖人も生前、「私が死んだら鴨川に流して魚のエサにしてくれ」と言われています。
庶民の場合、火葬されるとその遺骨はお棺に入れて土に埋められましたが
、
その上には特に墓石といったしるしになるものが置かれることはなかったそうです。
仏教においてお釈迦様が火葬されたことから仏教が拡まるとともに火葬が増えたといわれています。
この時代、公家や武家、庶民の間でも、
家格を示すため、また、家督相続の広く伝えるため、
葬儀が華美化していきました。
また、埋葬地を管理するために僧侶がお堂を建てて常駐するようになります。
このころから、地域のお寺が次々に誕生していきます。
そして、村々にお寺ができ、そのお寺の中の境内墓地となっていきまいた。
庶民の埋葬方法は、この頃も基本的に土葬ですが、
亡骸は木棺や桶におさめるようになりました。
そして、埋葬箇所は盛り土をし、目印に石や木を置くようにもなりました。
これが現在のお墓の前進となるものです。
庶民がお墓を持つようになった大きなきっかけは、
江戸幕府により「檀家制度」が定められたことです。
「檀家制度」には、キリシタンでないことを示す
身分証明が主な目的の「寺請制度」が根幹にありますが、
そこから住居歴・職歴・結婚等に関するあらゆる
個人情報を示す制度として機能することになります。
寺請制度により、住民の情報をお寺に集約し管理する役所
のような機能をお寺が担うようになったといわれています。
これにより、お墓も、お寺の管理下におかれました。
お墓の形式も寺請制度により変化していきました。
江戸時代の初期まで、お墓は「1人ずつ」もしくは「夫婦墓」が一般的でした。
しかし寺請制度によって自由に墓地を造ることができなくなったので、
埋葬する土地が限られるようになったことを受け、
お墓は家族や「一族」単位になったいきます。
そして現代のお墓のように、地下に納骨室を設け、
その上に墓石を建てる形が普及したのです。
貧しい庶民は立派なお墓を建てられるだけの財源がないことから、
河原の石を積むことでお墓の代わりとしていたそうです。
お墓の原型をつくったといえる江戸時代の寺請制度ですが、
明治維新で徳川幕府から明治政府に政権が移るとともに廃止されます。
この廃止によって、国民はどの宗教の管理する墓地にも、
宗教と関係ない団体が運営する墓地にも埋葬することが可能になりました。
明治時代になってから公共の墓地が造られ、
宗教にとらわれない墓地も造営されるようになりました。
明治時代以降、埋葬に場所を取る土葬に代わり、
場所を取らない火葬が一般化してきました。
江戸時代までのお墓というのは、
個人単位、夫婦単位で埋葬するのが基本的な形でしたが、
人口増加に伴い、埋葬地が不足していきます。
また長男がお墓を継ぐものだと定まったのもこの頃です。
これらの影響で、現在のお墓の形である
「○○家の墓」という形態のお墓が登場するようになりました。
家族墓の場合、ひとつのお墓をひとつの家族で
何世代にもわたって半永久的に使用することができます。
そのため、これまで庶民には建てることが出来なかったお墓が全国で広がりを見せました。
1900年代以降になると、石の採掘技術が進歩し、
経済的にも豊かになったことから石を重ねた立派なお墓の形が広まっていったのです。
大正時代には各自治体が火葬場を設け、地方でも火葬が一般的になります。
ただし、一部の地方では土葬も残り、昭和初期の段階でも、火葬と土葬はほぼ半々の割合でした。
墓地不足は更に加速していき、土葬から火葬への移行が人口の多い地域を中心に進むようになりました。
また、火葬への移行は、公衆衛生上の点からも進められていきます。
明治時代には伝染病での死者の火葬が義務付けられるようになり、
都市部では土葬を禁止する区域も出てくるようになりました。
また、火葬技術の進歩や墓地の公共施設化なども火葬への移行を加速させる要因の一つとなります。
昭和初期に入ると、郊外に整然とした区画を持ち自然と
調和するような公園墓地が造成されるようになります。
民営も含めた大規模霊園が全国で造成されるようになりました。
1948年にはお墓のあり方を定めた「墓地、埋葬等に関する法律」
「墓地埋葬法」が制定されます。
現代において亡くなった人を埋葬する時や、お墓を移す時には、自治体への届け出が必要ですが、
これらはすべて墓地埋葬法で定められていることです。
今までは土葬していた地域でも、墓地が不足することやお釈迦さまが火葬されたこともあり
火葬が受け入れられるようになっていきます。
役場が火葬場設営に積極的になっていき、全国的に火葬が定着しました。
1950年代になると火葬の割合が50%を超えるようになり、
1980年代に90%を超えました、現在では99.9%が火葬される状態です。
そして高度経済成長期に入り一般庶民の暮らしが豊かになるにつれ、「墓石のお墓」が一般的になっていきました。
現在では少子高齢化社会やライフスタイルの変化にともない、
さまざまなお墓が登場するようになりました。
樹木葬や散骨、永代供養などがあげられます。
今までの先祖代々の墓だけではなく納骨堂も選択肢として選ばれるなど、
多様性が認められるようになりました。
それぞれが自分たちの生活に合わせた供養を行えるようになったのです。
お墓の未来を考えるとき、今だけではなく
これからの社会情勢の変化に目を向ける必要があります。
これまでに定着してきたような一つのお墓を守り続けるという、
従来の形は難しくなってくるかもしれません。
お墓の歴史についてご紹介しましたが、いかがだったでしょうか。
古く、縄文時代から死者を弔う文化は存在していました。
それから長い年月をかけて、それぞれの時代に合った埋葬のかたちに変化していきます。
今ではお墓の形態が多様化し、選択肢が大きく広がりました。
墓石タイプのお墓でも、形や色などデザインされたさまざまなお墓を見ることができます。
ただし時代によって埋葬方法やお墓のかたちは変わっても
故人を悼む気持ち、ご先祖様を大切に思う気持ちは変わりません。
現代では、私たちの価値観、家族のあり方は大きく変わりました。
今までは、自分の入るお墓は決まっているというのが一般的な価値観でしたが、
今は自分の埋葬方法は自分で選ぶ時代に突入してきています。
というわけで、今回は日本のお墓の歴史についてご紹介しました。
お墓を選ぶことの出来る時代、お墓の歴史を知って
少しでも安心してお墓を選んでいただけたらと願います。
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